わきが
長野 美容外科
C O L O R × G A M E
グッピーが我が物顔で小さな袋を突き進む。そちらに行っても水はないよ、そこから出たら死んでしまうよ。
わたしが新宿までわざわざ(本当に、こんな日じゃなければ足を運んでなんかいない!)やってきたのには、いくつか理由がある。理由も無く、こんな高い高いビルばかりが建っている場所に来るほど、わたしの首は丈夫じゃない。
理由の一つとしては、昨日の夜に再会した知人(またの名を旧友)宅へ押し掛けることがある。その前準備として、小さな生き物たちを小さなハコから、更に小さな袋へ移動させて、金銭と交換した。それは今、わたしの右手にぶら下がっている。
今日の予定はこれで仕舞いだ。
わたしはすぅ、と深呼吸をして、暗い橙色をたたえた街の空気を体内に取り込んだ。
「……さて、」
コツコツと足音を立てながら、覚悟を決めて歩いた。今日は最後の日、最後、最期。
もう、わたしの心は閉店直前なのだ。
ぶくぶくと水槽の中に揺らめく泡に動かされ、水草は奇妙にダンスをはじめた。ゆらゆら、ふわふわ、ぞわり。
蛍光灯の明かりに照らされて、水面がキラキラと揺れる。水面と視線を同じ高さにしてみたら、なんだか真昼間に入水自殺でもしているような気になった。そして光源の反対側では、泡の影が浮かんでは消えていく。
そうしているうちに、わたしの手によってホームセンターの袋に入ったグッピーが投下された。
パシャンと軽い音を立てて、グッピーは広い広い大自然に辿り着く。はじめは吃驚したように自分の近辺を泳ぎ、そして自身が投げ込まれた環境を理解してからは、水槽いっぱいを泳ぎまわる。
わたしはそれを眺めて、口元を歪めた。
「そんなの持ってきてどうするの、君」
折原臨也はわたしに尋ねた。唐突だった。
「そんなの? この子たちを“そんなの”って言うなら、私は貴方を“アレ”と呼ばせていただきます。貴方は人間が、ヒトという生物の生態が興味深く、そうして人を愛しているようですが、この子たちだって“生きている”のですから、同じ“生きている”人間と全く同列にあるはずで、そしてこの子たちの生態もなかなかに面白いものがあること、貴方は知らないのでしょうね。かわいそうに、人生の8割を棒に振りました」
横幅40センチほどの水槽に広がる疑似的な自然越しに、わたしは折原臨也に吐き捨てた。話の筋は通っていない。まず問いの答えにすらなっていない。通すつもりも答えるつもりも皆無だ。
論理的でもなんでもない、ただ、彼の鬱陶しさを真似してみただけだった。
「俺の真似? 君も飽きないねぇ」
なんと彼は頭のいいことだろうか。延々と語りつくした中で、わたしの真意だけを突いてくるとは。
わたしには、瞬時に受け答えるには通常の会話で限界だというのに、彼はいつだってあれほど、いや、あれ以上のものを吐き捨てている。それは歪んだ理論であったり、人を巻き込む詭弁であったり。
そして彼は悪戯を思いついた子供ように、無邪気に笑ってわたしに向き直った。
「……じゃあ、、その子たちの世話をするのに通うのは不便だろうから、いっそここに住みなよ」
「嫌だ、吐き気がする。そもそも、わたしはもう来れないに決まってるじゃないの」
ちゃんと返せたわたしを、わたしは褒めることにする。
しかし、なんだか彼は、少し残念そうに見えた。なんだこの目は、少し、いや、大分疲れがたまっているのだろうか。嫌だなぁ、目頭が熱い。
ぶくぶくと揺れる泡越しに歪む顔、薄青に染まった臨也の部屋、背景のビル群、電子機器の数々、思慕、嫌悪、愛情、裏、表。
「……オマエのせいだ」
ぼそり、わたしはつぶやいた。
人を愛することができなくなったのも、とてつもなく情緒不安定になるのも、無性に今泣き叫んでしまいたいのも、全て、こいつのせいだ。
「ああそうだ、、結婚おめでとう。披露宴には呼んでほしいな」
チロチロと水の循環する音、
カタカタとキーボードを叩く音、
ヤカンのお湯が沸いた音、
わたしの心臓に刃が刺さる音、
ほろりと零してしまった涙は水槽に隠して、わたしは笑った。
彼を心の底で愛してしまったわたしに、罰を与えよう。
「はは、やめてよ。アンタがいると静雄くんが呼べないじゃないの。ただでさえわたしはアンタのことが鬱陶しくて仕方ないのに」
言い捨てたら最後。
もう、孤高の彼には手を伸ばすことさえ許されないのだろうなぁ。
私は水槽に敷かれた砂利に早くも糞が乗っているのを見つけて、ゆらめくそれの動きを意味もなく見ていた。さっさと帰ってしまわないと。そろそろ、覚悟が折れてしまいそうだ。
帰る覚悟は、もう失くしているのに。
「……どうしてそう言うの? そんなに俺のことが好きなら旦那に離婚届でも突きつけてやればいいのに」
ぎょっとした。深海のように穏やかだった心が、嵐のように蠢きだす。
耳をふさいでしまいたい、冗談だと笑っていてほしい。これは彼の十八番、揺れ動く人の心を眺めては笑っているんだ! が、が要らぬ期待をせぬうちに、彼女をここから遠ざけないと!
アハハ、とさも愉快そうに笑う臨也はすう、と目を細め、水槽越しにわたしと目を合わせた。
眼前をすいすいと、外の世界なんて関係ないといった顔で通り過ぎるグッピー。
「それとも何、略奪愛がお好みかい? ちゃん」
気付いた時には、遅かった。
水槽の向こうにいた臨也が右側にいて、そして、後頭部を引き寄せられて。
――――逃れられない。